川村 文夫 (かわむら ふみお)
技術者のためのキャリアコンサルタント
1960年生まれ 神奈川県大和市在住
経歴
大学では情報工学を専攻。半導体にも興味を持ち、バイオエレクトロニクス関係の研究室に入りバイオセンサーの研究に取り組む。
1984年に大学を卒業し、制御技術に将来性を感じてファナック株式会社に入社。NC装置の電子回路設計を担当する。
3D CAD端末の設計で高速演算回路設計なども担当する中で、エレクトロニクスやデジタル化の大きな可能性を感じる。
当時、複写機のデジタル化プロジェクトを進めていた株式会社リコーに興味を持ち、世の中にない商品を開発したいと考え、1988年に転職。
デザイン業者向けの画像編集機能などを搭載したデジタル複写機を発売するも売れず、試行錯誤の中でメモリやHDDを搭載していないそれまでの複写機に対し、「一度スキャンをすれば何枚でもプリントできる」というデジタル複写機の基本機能としての価値にたどり着く。
この価値を重視したデジタル複写機の開発の中で、コピー/ファクス/プリント/スキャンを1台で実現するためのシステムアーキテクチャ設計を推進し、製品コストに関しても大幅なコストダウンを行い、1996年に普及層のデジタル複写機(MFP*)を発売。
*MFP:Multi-Function Printer
この商品がきっかけとなりドキュメントを中心としたオフィスにおける様々な業務の効率化が可能となり、複写機業界全体のMFP化を一気に加速することになる。
会社の業績が伸びていく中で仕事に忙殺される日々が続き、自分を見つめなおす時間を持つために転職先を決めずに8年間勤めたリコーを1996年9月に退職。
3ヶ月間無職の充電期間の後、オフィスでの普及が進むと感じていた業務用プリンターを開発している株式会社アプティに転職する。
低コストを実現できる技術を基盤にプリンターコントローラのOEM事業に携わり、顧客獲得のために自ら技術営業としても積極的に活動。開発面においても、仕入先を巻き込んだリコーでのコストダウン設計の経験を活かし、利益創出にも貢献する。
転職後1年半ほど経ったころにリコーでプリンター事業を強化する戦略が立てられ、元上司からプリンター業界経験者としてキャリア採用の打診を受ける。
事業規模の大きさや、MFPとともにプリンター事業を立上げることに事業拡大の大きな可能性を感じ、プロジェクトマネージャ職を希望して1998年10月にリコーへ戻る。
プリンター業界での経験を活かして商品の開発推進をするとともに、MFP/プリンター共通の新規コントローラアーキテクチャの開発も推進。その後、開発のマネージャーとしてMFPの開発プロセス改革やコントローラ開発戦略立案、新技術開発のための開発人員シフト計画などを立案。
当時のリコーではトナーを使ったプリンティング技術が主体であったが、インクジェット技術の可能性に惹かれ、2007年にインクジェット技術を使った全社事業戦略策定活動の推進リーダーとして自ら手を挙げ、インクジェット方式の商用印刷向けプリンター商品を提案し、早期市場参入を目的に他社とのアライアンスも企画。
自社のインクジェット技術の強みを活かした事業戦略を提案し、新しい事業部の組織設計を推進、2014年に設立。
役職定年まであと3年となった時点で「次のリコーを創っていく人材を採用する」という職種へのキャリアチェンジを考え始め、さらにこれまでの技術者としての経験を活かせると直感し人事への異動希望を提出。2014年10月より新卒やキャリア、障がい者などの技術系人材の採用業務に携わる。
異動を期にキャリアコンサルタント資格取得にチャレンジし、2016年4月に取得、採用業務として就活生の相談を受けながら、自発的に社内の技術系社員のキャリア相談を始める。
採用業務を行いながら、2017年にオンラインを主体とした技術者のためのキャリアコンサルタント事業を起業。2019年に組織風土改革を推進する組織へ異動、現場社員のボトムアップ活動を支援。
2020年に販売会社であるリコージャパンに出向と同時に定年再雇用となり、部門内のコミュニケーション活性化やエンゲージメントサーベイなど携わる。2023年2月に退職し、フリーランスに。
パーソナリティ
子供の頃から個性を認められるのが好きで、人とは違ったことをしようという志向が強く、好奇心も旺盛で色々なことをやってみるものの、長続きしない三日坊主であった。
中学、高校での部活は、卓球部、陸上部、体操部、軽音楽部、化学部などを転々と・・・。
特に高校時代は文化祭や合唱際、体育祭、球技大会、水泳大会など行事が多く、生徒自身がそれらの行事を主体的に企画・運営する学校であり、その中で皆と行事に熱中しているうちに、あっという間に大学受験の時期となり、多くの仲間と浪人することに。
一年間の浪人生活は人生で初めて真剣に勉学に集中し希望の大学に入学したが、単位がとれずに留年になりそうな危機的状態に陥ったことも。
基本的に自分は怠け者であると認識し、大変厳しいという噂で皆が敬遠する研究室を志望。噂どおり教授から厳しく指導され、何のために研究や実験をするのかという目的意識をしっかり持つことを教えられる。
2003年頃
ファナックに入社後は仕事も一生懸命だったが、毎日、飲み歩き、カラオケにはまる日々を送る。
研究所が山梨県忍野村に移転することをきっかけに転職活動を始め、リコーへ転職すると同時に結婚。
さすがに毎日ではなくなったものの飲むと必ず朝まで飲み、帰宅することなくそのまま出勤という飲み方が定着する。
暴飲暴食とストレスで40歳を過ぎた頃に体重が84kg、体脂肪36%となり、さすがに三大疾病の危険性を感じてダイエットを始めるが、運動に関してはお年寄りと一緒に温水プールで歩くことからスタート。
45歳のときにホノルルマラソンのTV番組で、お年寄りや若い女性が完走して感動している様子をみて、自分もマラソンを完走してみたいと思い始め、3年後のホノルルマラソンを目標にする。
学生時代から運動が嫌いで部活も長続きしなかったこともあり、基礎体力がなく初めは1kmも走れず、ウォーキングの練習から開始。
練習を始めてから1年で、フラフラになりながらも初めてハーフマラソンを完走し、感激する。
目標としていた3年後の2008年にホノルルで初のフルマラソンにチャレンジし、4時間17分で完走、そして感動の涙。
翌年には東京マラソンで3時間53分を記録したが、初心者によくある練習のやりすぎで膝を痛めてしまい、現在は週末のジョグを楽しむ程度に(笑)